カテゴリー「全都道府県訪問(~2006年)」の38件の記事

2006年12月25日 (月)

全都道府県訪問#40 鹿児島県

 次は鹿児島県訪問の報告です。ちょうど40番目の県になりました。

  • 第2日目
    • 宮崎県から移動~霧島温泉郷に入ると、昨日降った雪が除雪はされているもの路肩に数10㎝も溜まっていて、冬至前後の真っ暗な夕闇の中、山道を運転するのは少し恐い気がしました。
    • 霧島・林田温泉泊~霧島温泉郷から南側には視界を遮る山等はないため、翌朝ホテルのロビーや露天風呂からは桜島と錦江湾(鹿児島湾)の見事な眺望を楽しむことができました。
  • 第3日目
    • 霧島神宮参詣~霧島神宮参詣の栞によりますと御由緒は次のとおりです。200512241020000 「当神宮は天祖天照大神の御神勅を畏み戴きて三種の神器(皇位の御璽(みしるし))を奉持し、高千穂峯に天降りまして皇基を建て給(たもう)た肇国(ちょうこく)の祖神<天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)>をお祀りしているお社です。旧記によると欽明天皇の御宇(ぎょう)(西暦540年)、はじめ高千穂峯のほど近く脊門丘(せとお)に社殿が建立されたが、その後たびたび噴火炎上し幾星霜を経て今から500年前現在の社地へ御鎮座になりました。いまの御社殿は第21代薩摩藩主島津吉貴公が1715年(正徳5年)に造営寄進されたもので、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、勅使殿等その配置はまさに輪奐(りんかん)の美をなし、西の日光とも称せられる。特に殿内は漆塗りで二十四考の絵画、龍柱、床には鶯帳りが施されている。1874年(明治7年)2月「霧島神宮」と社号改定、官幣大社に列格仰せ出されました」(1枚目の写真は雪の霧島神宮)
    • 霧島民芸村訪問
    • 知覧観光~知覧は、「母ヶ岳の優美な姿を借景とし、260余年もの歳月を経200512241338000 て、歴史の息吹を今に伝える薩摩の小京都」だそうです。知覧武家屋敷群では、7つの国指定の名勝庭園を鑑賞することができました(2枚目の写真は佐多民子氏邸庭園)。同屋敷群の一角にある、築150年といわれる知覧独特の「二ツ家民家」を活用した食事処で郷土料理を楽しみました。
    • 開聞岳、白露酒造工場確認~霧島温泉で初めて味わった、白露酒造の芋焼酎「匠の華」がとても美味しくファンになりました。東京でも大きな酒屋さんでは売っています。
    • 指宿温泉泊~錦江湾を眺めながら、砂むし風呂を体験いたしました。背中と腿の裏が少し熱すぎるように感じました。
  • 第4日目
    • 城山観光~城山は南北朝時代に城が築かれていた標高107mの小高い丘で200512251202000あり、 西南戦争最後の激戦地です。ここの展望台からは、鹿児島市街地、桜島、錦江湾、そして大隅半島までの見事な眺望を楽しめます(3枚目の写真が城山から眺めた桜島と錦江湾)。
    • 仙巌園(磯庭園)観光~仙巌園(せんがんえん)は、第19代薩摩藩主島津光 久が1658年(万治元年)に別邸として建てたのが始まりだそうです。桜島を築山に錦江湾を池に観立てた雄大な借景を持ちます(4枚目の写真が仙巌園から観た桜島と錦江湾の借景、5枚目の写真が仙巌園内の磯御殿-内部の見学ツアーあり)。
    • 尚古集成館訪問~尚古集成館には、第28代薩摩藩主島津斉Himg0107_1彬により着手された殖産事業・集成館事業の一部が展示されています。本館の建物自体は旧集成館の機械工場でした。集成館事業については、パンフレットに次のように紹介されています。「1840年代、薩摩藩は開国・通商を求めるヨーロッパ諸国の烈しい外圧にさらされ、いち早く近代化に着手しました。 特に、1851年(嘉永4年)薩摩藩主となった島津斉彬は、ヨーロッパの国々のような強く豊か200512251341000 な日本を夢見て、集成館事業という非常にスケールの大きな近代化産業を推進しました。集成館事業は、鹿児島城下郊外の磯に築かれた工場群『集成館』を中核に、製鉄・造船・造砲・紡績・機械・印刷・出版・教育・製薬・精糖・ガラス・ガス・医療などさまざまな分野にわたっています。幕府や他藩の近代化が、軍事力の強化を主体としていたのに対し、集成館事業の場合は産業の育成や社会基盤の整備にまで及んでいました。人々が豊かに暮らせるようになれば自然とまとまる。人の和はどんな軍備よりも勝ると斉彬が考えていたからです。 斉彬は、幕府や藩といった枠を越え、日本人が一丸となって近代国家を築くべきだと主張していました。集成館事業は、薩摩藩だけではなく、日本全体を生まれ変わらせたいという斉彬の思いのこもった大きな事業だったのです。 1858年(安政5年)、斉彬は病死し、斉彬の夢は弟の久光や娘婿の忠義、西郷隆盛・大久保利通ら多くの家臣達に受け継がれました」
    • 薩摩ガラス工芸訪問~薩摩切子が有名です。
    • 鹿児島空港でレンタカー返却、空港出発~薩摩料理は、薩摩揚げ(本場のものは一つひとつが小振りです)、きびなご、黒豚が美味しいです。
  • 島津藩 自治は革命 命懸け

是非 人気blogランキング へ

是非 ブログランキング【くつろぐ】 へ

鹿児島―霧島・指宿・屋久・奄美 (’06-’07) Book 鹿児島―霧島・指宿・屋久・奄美 (’06-’07)

販売元:昭文社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

島津斉彬 Book 島津斉彬

著者:寺田 政明,筑波 常治
販売元:国土社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月24日 (日)

全都道府県訪問#39 宮崎県

 ちょうど1年前、全都道府県訪問の一環で宮崎県と鹿児島県を訪れました。今回は宮崎県訪問の報告です。

  • 第1日目
    • 宮崎空港到着、レンタカー借用~当日朝鹿児島県北部は数10年振りとかのHimg0087_2大雪に見舞われ、鹿児島空港は閉鎖されていました。もし宮崎空港ではなく鹿児島空港に向かっていたらフライトはキャンセルされていたはずで、最初から幸運の女神が微笑んでくれました。宮崎空港でも雪が降ったそうですが、昼前に到着した時には消えていました。
    • 青島観光、青島神社参詣~とにかく吹きさらしで、風がとても冷たくライナーをHimg0090_1外したコートではかなり寒い思いをしました。青島は周囲1.5㎞の小さな島ですが、海幸彦、山幸彦の神話の舞台であり、島の中央には山幸彦を祀った青島神社があります。神社には、巨人軍の選手が春のキャンプ時に奉納した絵馬が沢山掛かっていました。また、島にはビロウ樹(椰子科の植物)等の亜熱帯植物が生い茂っていました。そして、島の周りは「鬼の洗濯板」と呼ばれる面白い波状岩で囲まれていました(1枚目の写真が青島神社の鳥居と鬼の洗濯板)。
    • 青島泊~翌朝、ホテルから日向灘に昇る日の出を観ることができました(2枚目の写真)。
  • 第2日目
    • 堀切峠観光
    • サンメッセ日南訪問~京都一燈園の創始者で、日本の聖フラHimg0093_1ンシスコとも、あるいは日本のガンジーとも称される西田天香の遺徳のよって造られた太陽と南洋のパーク(公園)です。イースター島のアフ・アキビという名前の付いたモアイ7体を正式な許可を得て復刻したものが並んでいる様は、壮観でした(3・4枚目の写真が7体のモアイ像)。これは、イースター島のモアイ像を修復した日本チームに感謝し、復刻が許可されたものだそうです。
    • 鵜戸(うど)神宮参詣~鵜戸神宮は鵜戸崎の海蝕洞の中に建Himg0094_3ち、神武天皇の父の生誕地といわれているそうです。境内から眼下に望む海岸にある、亀石の甲羅の窪みに素焼きの玉を投げ入れ、入れば願いが叶うといわれるものがありました。7個の玉を購入し、7回チャンスがある訳ですが、男性は左手で投げなければいけませんでした。それでも、私は3投目に見事に入れることができました。
    • 飫肥観光~飫肥は、日本外交の基礎を築いた明治の外交官・小村寿太郎Nec_0095 出身地です。彼は、1905年(明治38年)首席全権大使として米国ポーツマス市で日露戦争終結のための交渉をロシアと行い、日露講和条約を締結することができました。飫肥城では、豫章館(藩主伊東家の屋敷と庭園)、松尾の松(江戸時代の藩主の御殿を再現)、飫肥城歴史資料館(飫肥藩ゆかりの品々を展示)、国際交流センター小村記念館(小村寿太郎侯の資料館、国際交流。文化的行事にも活用)、そして商家資料館(飫肥商人の暮らしに触れる)を見学しました(5枚目の写真は飫肥城大手門)。また、名物おび天を食しました。
    • 鹿児島県へ移動~多分台風による崖崩れのせいで飫肥街道から都城へ抜けるルートが閉鎖されていたため、かなり遠回りになりましたが宮崎自動車道を利用して鹿児島県に入りました。
  • 遥か明治 飫肥が育む 外交力

是非 人気blogランキング へ

是非 ブログランキング【くつろぐ】 へ

宮崎県の歴史散歩 Book 宮崎県の歴史散歩

販売元:山川出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

小村寿太郎とその時代 Book 小村寿太郎とその時代

著者:岡崎 久彦
販売元:PHP研究所
Amazon.co.jpで詳細を確認する

小村寿太郎―近代随一の外交家その剛毅なる魂 Book 小村寿太郎―近代随一の外交家その剛毅なる魂

著者:岡田 幹彦
販売元:展転社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月22日 (金)

12月の銚子・犬吠埼

Himg0151  先週末、関東最東端といわれる銚子・犬吠埼を、愛車レクサスIS250を駆って1泊2日で訪ねて参りました。12月は、地軸の傾きのせいで、日本最東端の北海道納沙布岬より日の出の時刻が早い、つまり日本一早く日が昇ること(午前6時30分頃)で有名なところです。しかし、真に残念ながら、今回は天気が曇りで日の出を拝むことはできませんでした(1枚Himg0144目の写真はホテルから眺めた犬吠埼)。
 (注)島嶼部を考慮する と、12月に日本一日の出の時刻が早いのは多分小笠原諸島だと思います。
 1日目は、犬吠埼灯台を登り、次に地球の丸く見える丘展望館を訪れました。犬吠埼灯台は、北緯35度42分28秒、東経140度52分07秒の地点にHimg0139建てられ、地上から灯火まで27m、水面から灯火まで52mの高さがあり、初点灯は 1874年(明治7年)11月15日とのことです(2枚目の写真は犬吠埼灯台と商店街)。(九十九里浜にちなんだ?)99段の螺旋(らせん)階段と16段の梯子を登ると展望デッキに出られ、360度のパノラマの眺望が楽しめます(3枚目の写真は灯台展望デッキから君ヶ浜を望んだもの)。地球Himg0150の丸く見える丘展望館(4枚目の写真)は、標高73.6mの銚子最高峰の愛宕山山頂にあり、屋上の展望台からの眺望は330度が海といわれ、文字どおり地球が丸く見えました。
 2日目は、ヤマサ醤油工場、ウオッセ21、屏風ヶ浦(びょうぶがうら)そして飯岡刑部(ぎょうぶ)岬展望館を訪ねました。醤油の醸造は漁業と並ぶHimg0153銚子の主要産業で、元々は醤油醸造の発祥の地紀州(和歌山県湯浅町が文字どおりの発祥の地)からおよそ400年前に製造法が伝えられたものだそうです。週末は工場が休業でビデオ案内のみでした。ウオッセ21は水産物卸売センターで、大抵のお土産はここで 揃えられます。屏風ヶ浦(5枚目の写真)は、銚子市の南西側、名洗(なあらい)から飯岡刑部岬展望館Himg0157_1のある刑部岬まで約9kmにわたって高さ40~50mの断崖絶壁が続いているエリアで、英仏海峡英国側ドーバーの「白い壁」にたとえられ「東洋のドーバー」とも称されているそうです。最後の飯岡刑部岬展望館からは、刑部岬から始まり南西方向に遠くに広がる九十九里浜(6枚目の写真)を一望するこ とができました。
 (注)13世紀に中国南宋から径山寺(金山寺)味噌の製法が現在の和歌山県由良町に伝わり、味噌樽にたまる汁を商品化したものがたまり醤油だそうです。
 最後になりましたが、さすがに水産物は活きがよく美味で、カンパチ、タイ、ハマチ、マグロ、イカ、タコ等に加えて、キンメダイ、サワラ、サンマ等も生で食しました。

  • 海の道 紀伊から房総 醤油ロード

是非 人気blogランキング へ

是非 ブログランキング【くつろぐ】 へ

DVD あなたの街のローカル鉄道 銚子電気鉄道

販売元:ビデオメーカー
発売日:2004/05/20
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 8日 (金)

大エルミタージュ美術館展と上野公園の紅葉

Himg0112_1  先週末上野公園(上野恩賜公園)にある東京都美術館で、大エルミタージュ美術館展を観て参りました。展覧会の副題が、「いま甦る巨匠たち400年の記憶」そして「ヴェネツィア派からモネ、ゴーギャン、ルノワール、ピカソまで」とあり、かなりの意気込みが窺えます
 この展覧会は3フロアーを使い、ロビー階に「Ⅰ家庭の情景」として20Himg0109点、1階に「Ⅱ人と自然の共生」として39点、そして2階に「Ⅲ都市の肖像」として21点、合計80点もの絵画が展示されておりました。いつものとおり進化した音声ガイドを利用して素早く鑑賞したわけですが、私の印象に残ったものは、フラマン、クナウス、ルノワール、ゴーギャン、マチス、ルソーらの絵画でした。ゴーギャンの絵は本展覧会のテーマの絵にもなっております。このHimg0110_1展覧会の会期は、クリスマスイブ、12月24日(日曜)までです。まだご覧になっていない方は早めにいらして下さい。

 エルミタージュ美術館はロシアのサンクトペテルブルグにあります。サンクトペテルブルグは、ロシア皇帝ピヨトール1世が何もないところに一からHimg0114_1築き上げたロシアの首都です。エルミタージュとはフランス語で「隠者の庵」という意味らしく、元々はエカテリーナ2世の絵画コレクションをプライベートに展示していた場所(王宮)であったそうです。後に一般に公開される訳ですが、展示室が約1000もあり、鑑賞するために歩く総距離が何と28㎞もあると聴かされ、とても驚きました。ロンドンの大英博物館、パリのルーブル美術館と併せて、世界の三大博物館と呼ばれているそうです。

 ところで、上野公園は紅葉の真っ盛りでした。紅葉の写真を説明します。Himg0107上から、①東京国立博物館(左下隅)と紅葉、②水上音楽堂近くのモミジの紅葉、③不忍池・ボート池と紅葉(上野精養軒が右上隅にわずかに観えます)、④噴水横の紅葉と月齢11日位の月、⑤(突然新宿ですが)新宿中央公園の紅葉と水の広場でのフリーマーケット(蚤の市)(左隅)です。なお、上野公園は、江戸幕府三代将軍徳川家光の命により天海僧正によって1635年(寛永2年)に建立された寛永寺の境内跡だそうです(出展「江戸下町情緒―上野恩賜公園」)。

  • 紅葉と エルミタージュの 競演か

是非 人気blogランキング へ

是非 ブログランキング【くつろぐ】 へ

THE HERMITAGE DVD THE HERMITAGE

販売元:Artist&Associates
発売日:2006/01/27
Amazon.co.jpで詳細を確認する

エルミタージュ―波乱と変動の歴史 Book エルミタージュ―波乱と変動の歴史

著者:郡司 良夫,藤野 幸雄
販売元:勉誠出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 東京10000歩ウォーキング〈No.19〉台東区 上野恩賜公園満喫コース―文学と歴史を巡る

著者:篭谷 典子
販売元:明治書院
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年11月20日 (月)

日光山輪王寺逍遥園の紅葉

2_2

 普段は見落としそうな日光山輪王寺の逍遥園(しょうようえん)ですが、紅葉の季節には外せません。園内の解説板によれば、次のとおりです。

3_4

     逍 遥 園
 この庭園は、逍遥園といい、江戸初期の造園、小堀遠州の作と伝える回遊式庭園である。
 池を中心に、鶴亀に擬した中島と岬とが配置されており、四季折々の風情に富み、花木が織りなす美しさは格別である。かっての当輪王寺法親王宮の本坊の庭として、今に伝えられている。
 江戸後期の儒者佐藤一斎は、庭園の勝処八景をあげて「逍遥園」と名づけた。

4_1

 写真の説明をします。それぞれ、1枚目が青空と紅葉、2枚目が紅と黄の紅葉のグラデーション、3枚目が足元の綺麗な苔、4枚目が池と紅葉、最後の5枚目が見事に紅葉した1本のモミジです。

5_2

  • 上人の 信仰が今に 輪王寺

6_1

是非 人気blogランキング へ

是非 ブログランキング【くつろぐ】 へ

Book 日光パーフェクトガイド

著者:日光観光協会
販売元:下野新聞社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年11月19日 (日)

日光山内の紅葉

Photo_4

 やはり日光のハイライトは、世界遺産に登録されている、日光山内の二社一寺です。(社)日光観光協会オフィシャルサイトのパーフェクトガイドによれば、日光山内とは次のとおりです。

Photo_5

 日光山内という地名は、日光東照宮、日光山輪王寺(りんのうじ)、二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)、輪王寺大猷院(たいゆういん)のある一帯をさす。日光市街とは大谷川(だいやがわ)が境となり、市街から日光橋(または徒歩で神橋)を渡ると日光山内に入る。
 2つの神社(日光東照宮、日光二荒山神社)と1つの寺(大猷院を含めた日光山輪王寺)を、一般に二社一寺と呼び、二社一寺共通の拝観券もある。
 日光の歴史は勝道上人(しょうどうしょうにん)から始まる。開祖である勝道上人は、下野国芳賀郡(しもつけのくにはがぐん)(現在の栃木県真岡(もおか)市南高岡)の人で、735年(天平7年)に生まれた。7歳のある夜、明星天子(みょうじょうてんし)が夢に現れ、「仏の道を学び、日光山を開け」と告げたという。お告げに導かれ、勝道上人と10人の弟子は766年(天平神護2年)に大谷川を渡り、782年(天応2年)に二荒山(男体山)山頂を極め日光を開いた。

1_6

 二社一寺を巡る日光山内の歩きは、日光山輪王寺⇒日光東照宮⇒二荒山神社⇒輪王寺大猷院と回るのが正式順路のようです。ご存知のとおり、日光山輪王寺(天台宗三本山の一つ)と二荒山神社は勝道上人が創建したものです。しかし、日光東照宮は、死後朝廷から東照大権現という神号を贈られた徳川家康を神として祀る霊廟(神社)です。また、輪王寺大猷院は徳川幕府3代将軍・徳川家光が眠る霊廟(寺院)で、大猷院とは死後家光が朝廷から賜った法号の頭文字を組み合せたものとのことです。

Photo_6

 写真を説明しますと、上から1枚目が表参道の紅葉、2枚目が輪王寺三仏堂と紅葉、3枚目が輪王寺逍遥園(別記事で紹介)に入ってすぐの見事な紅葉、4枚目が東照宮表門(仁王門)から一ノ鳥居(石鳥居)方向(その先に表参道があり、そのまた先は江戸・東京方向といわれています)を望んだ紅葉、5枚目がたまたま展示されていた東照宮菊花展優秀作品、6枚目が二荒山神社大鳥居すぐ横の大猷院仁王門付近の見事な紅葉です。

Photo_7

  • 日光は 維新・戦災を 乗り越えて

Photo_8

是非 人気blogランキング へ

是非 ブログランキング【くつろぐ】 へ

Book 日光東照宮 隠された真実―三人の天才が演出した絢爛たる謎 日本史の旅

著者:宮元 健次
販売元:祥伝社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

日光東照宮の謎 Book 日光東照宮の謎

著者:高藤 晴俊
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

日光の社寺 悠久の杜の中で世界遺産写真集 Book 日光の社寺 悠久の杜の中で世界遺産写真集

販売元:下野新聞社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

世界遺産 日本編4 (厳島神社/日光社寺) DVD 世界遺産 日本編4 (厳島神社/日光社寺)

販売元:アニプレックス
発売日:2002/11/20
Amazon.co.jpで詳細を確認する

1000ピース 日光の社寺-日本 11-119 Toy 1000ピース 日光の社寺-日本 11-119

販売元:エポック社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月18日 (土)

日光の滝と紅葉#2(華厳滝・霧降滝)

 いよいよ華厳滝です。エレベータ(有料)で降りると滝壺近くの観瀑台に出られますが、そこの御案内板によれば次のとおりです。

1_3

 男体山の噴火で生まれた中禅寺湖の湖水が大尻(おおしり)川となって流れ出し、この大岩壁から一気に落下する壮大な雄姿が華厳滝です。
     高さ     97.0m
     落口巾     7.0m
     滝壺深さ    4.5m
     落水量 (毎秒1.3トン)
(注:落水量の数字はその日の水量により変更されます。この日の水量は多い方だと思います)
 華厳滝を囲むこの岩盤壁は上部から安山岩、集塊岩、石英斑岩とで形成され中段の細い滝の数々は十二滝と呼ばれています。滝の流れは観瀑台直下の涅槃(ねはん)滝にかかり大谷(だいや)川となって鬼怒川に合流しています。

3_3

 写真の説明をします。上から1枚目は滝壺近くの観瀑台から撮った華厳滝全容、2枚目は同じ観瀑台から滝上部と柱状節理、3枚目が駐車場横の観瀑台から見下ろした滝壺です(紅葉は落葉でした)。

6

 また、(社)日光観光協会オフィシャルサイトのパーフェクトガイドによれば、自殺の名所になったいきさつも含めて次のように紹介している(一部抜粋)。

 日光には四十八滝といわれるくらい滝が多いが、最も有名なのが華厳滝である。高さ97mをほぼ一気に落下する豪快さと、自然が作り出す華麗な造形美の両方をあわせ持つ。和歌山県の那智の滝、茨城県の袋田の滝とともに「日本の三大名瀑」とも呼ばれる。名称は涅槃滝、般若(はんにゃ)滝などと一緒に仏典の「釈迦の五時教(ごじきょう )」から名づけ られたらしい。
 滝を間近で観覧できるようになったのは、1900年(明治33年)。7年もの歳月をかけて星野五郎平(ごろべい)が滝壷近くに茶屋を開いた。そして1903年(明治36年)5月、18歳の旧制一高生であった藤村操がミズナラの木に「巌頭之感」を書き残して投身自殺をして以来、自殺の名所にもなってしまった。堅い岩盤をくり抜いたエレベーターが営業を開始したのは1930年(昭和5年)になってからである。
 6月にはたくさんのイワツバメが滝周辺を飛び回る。1月から2月にかけては十二滝と呼ばれる細い小滝が凍るため、華厳滝はブルーアイスに彩られる。

 藤村操の「巌頭之感」やその背景については、「小さな資料室」の資料にとても詳しく掲載されています。以下に、明治のリアリティを出すために、「巌頭之感」を元々使われていた旧字体の漢字を含めて引用します。藤村操の死は、彼が通っていた旧制一高で英語を教えていた夏目漱石にも影響を及ぼしているようです。漱石は藤村が予習をしてこなかったことで藤村を叱っていたため、藤村の死は自分が原因のように思ったようです。後に、藤村の死は麹町の女子学院に通う1歳年上の馬島千代さんへの片思い(プラトニックラブ)が引き金という説の証拠となる「恋人への遺書」が偶然見つかったりして、新しい展開があるようです。

     巌 頭 之 感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

Photo_3

 日光の滝を見るためには、もちろんいろは坂を登り、下った訳です。山道でも、愛車レクサスIS250は快適でした。4枚目の写真は雪の中禅寺湖、5枚目の写真はいろは坂のふもとの大谷川岸の駐車場のドウダンツツジと山の紅葉です(右端に愛車IS250の鼻先が観えます)。

1_4

 日光の最後の滝は霧降滝です。日光市街から霧降高原道路の方向に少し上ったところにあります。6枚目の写真は山のレストランの2階の展望室から撮ったものです。山の見事な紅葉の中に、二段になった霧降滝が優美に流れ落ちています。滝は、上段が25m、下段が26m、高さが75mあるそうです。

1_5

  • 真っすぐに 落ちる奔水 すべて絶つ
  • 天上の 滝と紅葉 彩の国

是非 人気blogランキング へ

是非 ブログランキング【くつろぐ】 へ

Book 日光パーフェクトガイド

著者:日光観光協会
販売元:下野新聞社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年11月17日 (金)

日光の滝と紅葉#1(湯滝・竜頭滝)

 那須高原は紅葉も終盤で、モミジが少ないため、何となく全体が褐色で華やかな色合いに欠けるような感じでした。ただ、那須高原は広大で、いろいろなアミューズメント施設があり、商店もレストランもホテル・旅館もそろってります。そして、温泉もあるし、牧場もあるし、御用邸もあり、まず飽きのこない場所のようです。
 那須はこれくらいにして、日光の滝と紅葉(ほとんどが落葉ですが)をご紹介します。上流から下流方向に紹介して参ります。まず奥日光湯元温泉にある湯ノ湖から流れ落ちて、湯川に注ぐ湯滝(1枚目の写真)です。湯滝は高さ75m、幅25m、落差50mの結構大きな滝です。この日は雨で水量が多く、私の知っている岩肌を薄い絹衣のように流れる滝とは相当にイメージが違いました。

1_1

 次に、湯川が戦場ヶ原を流れ下り、菖蒲ヶ浜で中禅寺湖に注ぐのですが、その少し上流側に竜頭滝(2枚目の写真)があります。男体山(なんたいさん)噴火により流出した溶岩の上を210mにわたって、階段状に流れ落ちています。滝壺近くで大きな岩によって二つの流れに分断されていますが、滝壺に流れ落ちる様子を正面から観ると竜の頭に似ていることから名付けられたといわれます。確かに写真をじっと眺めていると、中央部分が竜の頭と顔に見えて参りました。10月中旬であれば、竜頭滝の両側にモミジがあり、滝と紅葉の見事な コントラストが観られるはずでした(末尾のアフィリエイト広告の写真を見て下さい)。滝壺の横にあり、そこから竜頭滝を眺める龍頭之茶屋に、面白い「水五則」がありましたので、以下にご紹介します。

1_2

     水 五 則
一、自ら活動して他を動かしむるのは見ずなり
一、常に自己の進道を求めてやまざるは水なり
一、障碍に逢い激してその勢いを百倍し得るは水なり
一、自らを清うして他の汚れを洗うは水なり
一、洋々として大洋をみたし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霧と化し凝っては玲瓏たる鏡となりてしかもその本性を失わざるは水なり
         九十五叟 雲巌 憲道

 さて、いよいよ次は華厳滝(3枚目の写真)ですが、長くなってきましたので次の記事にします。

2_1

  • 岩肌を 流れる水の 清らかさ
  • 千変の 水に守られし 奥日光

是非 人気blogランキング へ

是非 ブログランキング【くつろぐ】 へ

1000ピース 秋に染まる竜頭の滝-栃木 10-641S Toy 1000ピース 秋に染まる竜頭の滝-栃木 10-641S

販売元:エポック社
発売日:2005/08/11
Amazon.co.jpで詳細を確認する

奥日光自然観察ガイド Book 奥日光自然観察ガイド

著者:宮地 信良
販売元:山と溪谷社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

奥日光の自然―光と彩りのなかで Book 奥日光の自然―光と彩りのなかで

著者:鈴木 克洋
販売元:山と溪谷社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月16日 (木)

塩原温泉もみじ谷大吊橋と紅葉

 日塩もみじラインを抜けると、塩原温泉・塩原渓谷の地域に入りました。この地域の紅葉もちょうど見頃でした。渓谷の散策ルートもあり、途中に滝や混浴露天温泉風呂等もあるのですが、時間がなかったので近年1999年(平成11年)4月に完成したもみじ谷大吊橋に向かいました。この橋は箒(ほうき)川に架かる全長320mの日本一の無補剛桁(ほごうげた)歩道吊橋で、総工費5億8千万円をかけたものだそうです。何が日本一かは橋の解説板によれば、次のとおりです。

7

 なぜ日本一なの?/もみじ谷大吊橋は、長さが320m、歩く幅が1.5mの「無補剛桁」という形式の歩道吊橋です。歩道吊橋の型式には、耐風索(横揺れを防ぐワイヤーロープ)があるものやないものがあり、耐風索があるものは、一般的に「無補剛桁」という型式です。耐風索がないものには、重橋床桁・ボックス桁・トラス桁という型式があります。それぞれの型式で日本一長い吊橋がありますが、このもみじ谷大吊橋は、「無補剛桁」という型式の吊橋では、今まで日本一だった315mの吊橋を抜いて、日本一の長さを誇る無補剛桁歩道吊橋になりました。

3_2

 実際に大吊橋を渡ると、橋の上にいる人数が少なければ余り揺れないのですが、数十人が同時に渡るとかなり揺れます。写真は、上から大吊橋を渡った対岸から見たもみじ谷大吊橋と紅葉(水面は塩原ダムの湖面です)、次に大吊橋の上から望んだ箒川上流方向の紅葉、最後に対岸からダム湖面越しに望む紅葉です。

5_1

  • 塩原の 大吊橋の 新名所

是非 人気blogランキング へ

是非 ブログランキング【くつろぐ】 へ

カエデ、モミジ Book カエデ、モミジ

著者:川原田 邦彦
販売元:日本放送出版協会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年11月15日 (水)

日塩もみじラインの紅葉

 龍王峡を訪れた後、日光(龍王峡)と塩原温泉を結ぶ日塩もみじライン(有料道路:600円)を走りました。紅葉したモミジの下を愛車レクサスIS250で走り抜けるのは、とても気持ちのいいものでした。栃木県道路公 社のホームページによれば、日塩もみじラインの目的は次のとおりです。

2

 この道路は、元来県道藤原西那須野線として、日光国立公園内の日光・鬼怒川地区と塩原・那須地区を結ぶ主要な観光及び産業道路として、1938年(昭和13年)に建設されたものですが、幅員、曲線半径、視距、路面(砂利道)等が車両通行に対応していないため、円滑な通行を阻害していました。
 こうした状況の中で、モータリゼーションの発達に伴い観光の増大と広域化が進み、地域住民や観光旅行者の間に早期改良舗装を要望する声が強まったことを受け、有料道路事業として、藤原西那須野線の一部28.1㎞を改良舗装して交通の円滑化を図り、観光及び産業の発展により、住民の福祉の増進に寄与することを目的に建設し、1972年(昭和47年)10月に供用開始しました。

3_1

 日塩もみじライン沿いにはスキー場も整備されており、冬季も含め有料で通年開通しているようです。特に、元々の雑木に加え、ライン沿いにモミジが多分住民の手で植えられており、標高の高低により美しい紅葉のグラデーションを楽しむことができました。本当に日本有数の紅葉鑑賞ドライブコースです。写真は上から、川治ダムと五十里ダムを望むポイントから逆方向に望んだ紅葉、ライン途中の見事な紅葉、そして紅葉ともみじライン(左端に愛車IS250がわずかに観える)です。

4

  • 陽を透す モミジの彩に 息をのむ

是非 人気blogランキング へ

是非 ブログランキング【くつろぐ】 へ

紅葉-もみじ- DVD 紅葉-もみじ-

販売元:ビデオメーカー
発売日:2004/09/09
Amazon.co.jpで詳細を確認する

わたしのもみじ Book わたしのもみじ

著者:岩間 史朗
販売元:ポプラ社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧