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2007年5月 4日 (金)

諏訪・高遠の旅#4(高遠)

 昭和の日に伊那市高遠町まで足を延ばしました。諏訪と高遠を結ぶ杖突峠を越える杖突街道(国道152号線)を経由しました。この道は峠までは険しい登りですが、峠を越えるとなだらかな降りになります。この大変な道を高遠勢や武田勢などの戦国武将たちが往き来したかと思うと感慨深いものがありました。
 まず、高遠城址公園に向かいました。高遠城は山本勘助が築城したもので、その名にちなんだ勘助曲輪(ぐるわ)(今は駐車場になっています)が残っています。残念ながら、約1,500本もあるという長野県天然記念物のコヒガンザクラの花は、盛りを過ぎ葉桜の段階になっていました。次の写真は、公園から観た葉桜とまだ頂上付近は白く冠雪している中央アルプスです。

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 ここ高遠城址公園は古戦場跡(高遠城の戦い)でもあり、案内板によれば次のとおりです。

 天正10年(1582)2月織田信長は、信玄なきあとの武田氏を一挙に滅ぼすために、伊那口からは長男信忠の率いる5万の兵を送り込んだ。
 この大軍に怖れをなした伊那谷の城主は、城を捨てて逃げ、或いは、降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。
 26才の青年城主仁科五郎信盛(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返して、3千の手兵をもって敢然としてこの大軍を迎え撃った。要塞堅固を以って響いた城であり、城主信盛以下将兵の決死の奮戦も、17倍のの兵力の前にはいかんともし難く、3千の兵はことごとく討死した。城主信盛は腹をかき切り、自らの手で腸を壁になげつけたと古書は伝えている。
 武田勝頼は上原城から新府に退き天目山で自害し、高遠城の戦いは武田氏滅亡の最後のはなばなしい、そして悲しい戦いの場となった。

 高遠城址公園の近くにある絵島囲み屋敷、伊那市立高遠町歴史博物館、そして進徳館(旧藩校)も訪れました。絵島囲み屋敷は、徳川幕府6代将軍家宣の愛妾、月光院の女中であった絵島が、33歳の時高遠に遠流(おんる)され、61歳で亡くなるまでの28年間を過ごした屋敷を復元したものだそうです。絵島は、役者生島新五郎との交遊により、大奥女中としての公務を怠ったとして流罪になったもので、絵島・生島の話は有名です。

 4月下旬から咲き出す桜があると聞いて、高遠城址公園から少し東側の山麓にある花の丘公園を観光しました。まずはベニユタカで、松前公園に植栽されている八重桜と松前桜龍雲院紅八重との交雑種とのことです。

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 次はヤエベニヒガンで、エゾヒガンとマメザクラとの雑種とのことです。

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 昼食には高遠そばを食しました。手打ちのそばを、焼きみそ、大根おろし、きざみネギを薬味に食べるもので、とても美味しいものでした。店にあった高遠そば由緒書によれば、次のとおりです。

 戦国時代からの歴史香る城下町高遠には、古くから伝わる「高遠そば」があります。
 そば切り発祥の地とも言われる高遠藩で、美食家の殿様に献上するためにお寺の住職と村人達が創案した食べ方が「高遠そば」で、大根おろし、きざみネギ、そして焼きみそを一体にして食べる独特のものです。
 現在も高遠の家庭料理あるいは季節料理として親しまれており、この度高遠町独自の食文化として生産者と販売者が一体となって新メニューとして旗上げを致しました。
 高遠そばは、旧高遠藩主保科正之公によって福島県会津若松にも伝えられ「高遠そば」の名で広く知られています。
     平成10年4月吉日 高遠そばの会

  • 山あいに 歴史の交差 高遠藩

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