東京で北方領土問題(北海道の国境問題)を考えると(2008.2.15付け札幌タイムス・コラム記事)
2月7日は北方領土の日でした。ロシア大使館近くに所在している当社の周辺は、街宣車によりとても賑やかになります。この日は1855年に日露通好条約が締結された日で、1981年に北方領土の日とするよう閣議決定されたそうです。確か8月8日にもやはり賑わいます。この日はソ連が当時まだ有効であった日ソ中立条約の破棄を一方的に宣言し、宣戦布告した日のようです。
北海道から離れた東京で生活しているのですが、こうして年2回北方領土問題について考えるようになりました。昨年8月に北大スラブ研究センターの岩下明裕教授の講演を拝聴しました。そして、岩下先生の著書「北方領土問題」も読みました。これまでの歴史、外交、議論等を俯瞰し、その上で過去を乗越え未来を築く新しい提案があることを知り感動しました。
いまや北方領土問題は、千島列島(クリル諸島)に国後島と択捉島が含まれるか否かの国境問題に集約されているように思えます。1951年のサンフランシスコ平和条約では日本が千島列島を放棄することが明記され、日本もこの条約を批准しました。しかし、ソ連と中国は講和に調印しなかったため、千島列島は誰に引き渡されたのか不明確でした。ソ連は千島列島を引き継いで所有と主張し、日本は一度も他国の領土になったことのない国後島と択捉島は固有の領土と主張しているようです。1956年に国交回復を果たした日ソ共同宣言では、内外のいろいろな事情により国境問題は不幸にも棚上げされました。ただし、当時のフルシチョフ書記長は歯舞諸島と色丹島のみを返還する方針は持っていたようです。
岩下先生の提案は、そこで歯舞・色丹の2島に国後の1島を加えた3島返還の条件でウィン・ウィンに妥結し、日露は平和条約締結に進んだらどうかというものと受け取りました。中露がすべての国境問題を五分五分で解決した事実を参考にして、①面積が五分五分に近いこと、②排他的経済水域も五分五分に近いこと、③日露それぞれの世論がそれを受け入れる素地ができつつあること等がその理由です。50年余り膠着している状態から次の新しい段階に進んで、北海道そして日本の力を試す時期ではないかと感じます。
(注)本記事は、筆者が2008年2月15日付け週刊札幌タイムスのコラム「がんばれ北海道」#138に寄稿したものです。
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コメント
2008年5月にノンフィクション作家であり評論家でもある保阪正康さんの講演を聴く機会がありました。
日本敗戦(終戦)の時に領土としての北海道が危機に瀕する事態があったそうです。ポツダム宣言を受諾した1945年8月15日に、ソ連のスターリン首相が米国のトルーマン大統領に宛てて電報を打ち、クリル(千島)諸島と留萌~釧路以北の北海道を要求した事実が残っているとのことです。トルーマン大統領は、返電で、前者は承認したが、後者はマッカーサー元帥が北海道から九州までを担当すると断ったそうです。ソ連が北海道をあきらめる代償として、関東軍のシベリア抑留があったのではないかと、保阪さんは推測していました。
まさに我が北海道は、危機一髪の情況でした。
投稿: Kirk | 2008年6月30日 (月) 午前 01時52分