国宝犬山城と木曽川うかいを観て
名古屋での仕事を終え帰るだけになりましたが、折角なので犬山市まで足を延ばすことにしました。名古屋駅から名鉄で犬山遊園駅に到着し、まずは木曽川岸を国宝犬山城(下の写真、写っている橋はライン大橋)まで歩きました。この城は木曽川南岸標高約40mの崖の上にそびえ、天守閣は全国の現存するものの中で最も古いとされているようです。
犬山城は別名白帝城とも呼ばれ、江戸時代の儒学者荻生徂徠が李白の次の詩からとって命名したと伝えられているそうです。
朝に辞す白帝彩雲の間
天理の江陵一日にして還る
両岸の猿声啼きやまざるに
軽舟すでに過ぐ万重の山
犬山城のパンフレットによればその沿革は次のとおりです。
犬山城は、天文6年(1537年)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました。戦国時代なので、その後何代も城主が代わりましたが、1600年(慶長5年)の関が原合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきました。
小牧長久手合戦(1584年)の際には、豊臣秀吉は大阪から12万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正成が元和3年(1617年)城主となってからは、成瀬家が代々うけついで明治にいたりました。
明治4年(1871年)9代目成瀬正肥のとき廃藩置県で廃城となり、櫓や城門など天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいました。
明治24年の濃尾震災で天守閣の東南角の付櫓など、ひどく壊れました。それを修復する条件で再び成瀬家所有の城となりました。その後、伊勢湾台風でも被害を受けましたので昭和36年から昭和40(1965年)まで4年間かけて解体修理がおこなわれました。
昭和10年(1935年)国宝に、昭和27年規則改正にともない改めて国宝に指定されました。
国宝の犬山城、彦根城、姫路城、松本城の四城のなかでも、最も古い城であります。
平成16年4月、財団法人「犬山白帝文庫」が設立され、城の所有者は個人から財団法人になりました。
次の写真は城の敷地内で撮ったものです。サクラに混じってヤマボウシが植えられており、ちょうど十字の白い花を沢山咲かせておりました。
次の写真は天守閣から東方を望んだものです。橋はツインブリッジ犬山橋で、その右側たもとにその晩乗船したうかい乗場があります。日本ライン下りは橋のさらに上流から下ってくるそうです。右手中央の緑色の屋根の建物が名鉄犬山ホテルで、夕食はここで鮎料理などを食しました。一方木曽川の北側を見渡すと、そこは岐阜県で岐阜市金華山(稲葉山)にある岐阜城(旧稲葉山城)等が遠く望めます。遥か昔戦国時代に、尾張国の織田信長が美濃国(今の岐阜県)を欲しがった気持ちが少し理解できました。
夕食後、1300年の歴史があるという名勝日本ライン木曽川うかいの乗場に向いました。次の写真は屋形船乗船前に、舟べりで羽を乾かす鵜を撮ったものです。羽を広げているので、飛べないように左の羽の一部が切り取られているのがよく分かると思います。不思議なことに鵜は飛べなくなると生殖能力がなくなり、雄か雌か区別できなくなるそうです。したがって、うかいの後継ぎはいつも野生の鵜から探して来るのだそうです。
うかい実演終了後、川岸で停泊して腰蓑をまとった鵜匠から若干の説明がありました(次の写真、後方にライトアップされた犬山城が観えます)。その中で記憶に残ったことは、鵜は魚を飲み込んだら舟上に引き上げて魚を吐き出させなければもう魚を採らない、ということでした。名残を惜しみながら木曽川を後にしました。
- 木曽川に 城と鵜飼の 影映し
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